節操もなく乱読してみた。

  

<自己愛>の構造 (講談社選書メチエ)

<自己愛>の構造 (講談社選書メチエ)

 
この本に出てくる話は、日本人にはわかりやすいです。

「人は自律できない。そもそも、自己を語る上では、自己ではない存在(他者)を必要とする。」という話は、まるで、「人」という字は、直線2本が支えあってこそ「人」である という説明を読んでいるかのようでした。
  
理想の極(各人の理想となる対象)と、野心の極(各個人をありのままに受け入れ支える(e.g. イエスマン?)『人間』)の二つが適度に満たされ、ゆるぎない自己を確立してこそ、人は理性的になると読みました。
  
では満たされず、自己が確立できなかった場合はどうなるのでしょうか?
  

サヨナラ、あきらめられない症候群

サヨナラ、あきらめられない症候群

  
モノや預金残高やステータスが、現代の免罪符なのでしょうか?
  
「私のことをわかってほしい。」という「共感」を他者に求めつつ
満たされなかったのであきらめて、情緒的に他者と交流するのを避けつつも、どこかに居ないかと探し続ける姿から、The police の Message in the bottle を思い出しました。
  
他者から共感されたことがない人は、他の人に共感することができないという、連鎖があるのは恐ろしいです。
  
上記の2冊を読んでいると、ルース・ベネディクトの「菊と刀」にでてくる「罪の文化(西洋)と恥の文化(日本)」の時代から、かなり変わってしまったものだと思いました。他者の気持ちに共感できなければ、「恥」などという概念は存在しようがないからです。
   
Point of no return はいつの間に踏み越えてしまったのかしら?